コギト・エルゴ・スムもどき
弱気になっていると、ささいなことで卑屈になってしまいます。
例えば、私はほぼ毎日近所のスタバに行って、90%の確率で「スターバックスラテのトールサイズのホット」を頼みます。
ほぼ100%の確率で、店員さんのにこやかな笑顔つきで聞き返されます。大きな声が出せなくなっているのです。
最初、文節が長いからかと思い、「スターバックスラテのトールお願いします」と言ってみました。
ホットorはアイスは聞かれてから答えようかと思ったのです。
そしたら、「サイズはいかがされますか?」と聞かれました。
「トールの」の部分が、「ホットの」と聞こえたのでしょう。
たまたまじゃなくて、最近大きな声が出せなくなってしまいました。
そんな自分が世間からはみだしているようで、なんだか情けなくなります。
注文で緊張することなんて普段はないのになぁ。
今日は珍しく混んでいて、商品を作ってもらってる間に席を確保しようかと、空いてるいすにストールを置いて離れました。
(都会ではお席を確保してから注文してくださいとお店の人から促されるし、マナー違反という認識はありませんでした。)
そしたら、後から来たマダム風の上品な方々が、私のストールを窓の棚のところにぽんと置いて、座って談笑してらっしゃいました。
私の行動も高知ルールではマナー違反だと論理づけることももしかしたら可能かもしれないし、と思い、小さくすみませんと言って、ストールを取りに行きました。
忘れ物とでも思われたのでしょう。
それに反応することもなく、マダム達は談笑を続けておられました。
席を取られたとか、そういう発想は全くなくて、私は自分が透明人間になったかのように思いました。
私は存在しているのだろうか。
そもそも、私は常に存在していたいのだろうか。
この本を読み始めたのですが、
- 作者: 森博嗣
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「先生……、現実ってなんでしょう」
萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」
犀川はすぐ答えた。
「普段はそんなものは存在しない」
これを読んだ時、何かほっとしてしまいました。
まだほとんど読んでなくて、たぶん全然違う解釈をしているんだろうなぁと思いますが。(もっと物理学的な意味だと思います。)
現実を意識すると、私が存在していることも意識する。
存在していることを意識すると、社会で、あるいはその瞬間対峙している人の前で、いかに存在すべきかを考えなければいけない。
それが苦しい。
つまり、現実を意識しなければ、その苦しみから開放されるということになると考えました。
我思う、故に我あり、みたいな。
そう考えると、ちょっと気が楽になったのです。
なぜ私がスタバに足繁く通っているかというと、こういうチェーン店のコーヒーショップに来ると、固有名詞が普通名詞になるみたいに、私という人間がただの人間にカテゴライズされるような気がして、楽なのです。
没個性化すると、現実も私という存在も、ちょっとだけ考えずにすむのです。
しかしやっぱりそこに他者が入ると、比較することで自己を意識してしまいます。
冒頭のような出来事があると、自分の存在を意識してしまって、それが他者からすると異質なものに映ってるような感覚に陥り、落ち込んでしまうのでしょう。
何をねちねちとこねくりまわしているのか。
明日はもうちょっと大きな声で注文するぞ。