男友達と女友達
あったかい、を通り越して、暑い。
昨日は最高気温23度だったそうです。
ニットを持って帰ったのに、さっぱり出番がありません。
天気が良かったので、城に散歩に行ってきました。
絶景哉。
紅葉が見ごろでした。
銀杏並木。
嗚呼素晴らしき、銀杏絨毯。
高知名物アイスクリン(バニラ味のシャーベットみたいな感じ)を食べて、二の丸のベンチに寝っころがって、動く雲を見ていました。
※よい大人はマネしてはいけません。
きれいで、おいしくて、幸せになったので、「紅葉がきれいです」などと、もうすぐ結婚する好きな人に報告したくなりました。
そんな痛いことはしたくないので、同じ内容を同期のジャニーズくんに送り付けて、気を紛らわせました。
さらに空を眺めながら思索にふけっていると、どうしてこういうときに私は、より親密な女友達ではなく、男友達に連絡してしまうのだろう、私は男好きなんだろうか、と自己嫌悪に陥り始めました。
自己嫌悪を解消するために、そのことについてもう少し考えてみることにしました。
※以下、私の独断と偏見です。男が~女が~という議論に気分を害する方は上の(撮り方は下手ですが)きれいな紅葉の写真をお楽しみいただき、タブを閉じてください。
私には男友達も女友達もたくさんい(ると自負してい)ますが、いわゆる男女関係という意味での”女”を必要としてこない男友達は、かなり楽で貴重な存在です。
男の人は、基本的に、”共感し合うこと”に対しての欲求が女の人より低いため、”共感し合うこと”に対する諦めが早いように思います。
なので、どんなに親密になっても、分かり合えない部分があることを前提で付き合えるので、その部分に甘えることが、私はできます。
「紅葉がきれい」と私の男友達に送ったところで、彼らはそれ以上の文字情報を読み取ろうとはしないと思います。
そして、私の心の闇の部分をさらけだしたところで、自分の共感できない、わからない部分は聞き流すことに長けてるんじゃないかと思います。
ゆえに、彼らが共感できない部分で私がいくら闇をさらけだそうが、彼らの心の何かを傷つけることはないんじゃないか、と思い、安心して甘えてしまうのです。
空にボールを投げるような、そんな気分で気軽に連絡したり、発言したりできるのです。
逆もしかりで、彼らに相談を持ちかけられたところで、私も気軽に返答ができます。
ただ聞いてほしそうなだけのときにはいくらでも話を聞くし、この意見こいつは受け入れる気になるか微妙かも・・・と思っても、まあ聞き流してくれたらいっか、と思って気軽に言ってしまったりします。
女の人は、”共感し合うことに対する欲求”、つまり、わかってほしい、わかってあげたい、という欲求がものすごく果てしない気がします。
発せられる言葉と同時に、今この人はどういう気持ちで話しているのかを理解したいし、今自分はどういう気持ちで話しているのかを理解してほしい、と思って話したり聞いたりしている気がします。
「紅葉がきれい」と一言送るだけでは、私の多くの女友達は言外に何が含まれているのかを考えるだろうと思います。
おおかたは、こんな病気だし、休職してるし、こんな内容のないとんちんかんなことを送ってくるということは、なにか悩んでいることがあるんじゃないか・・・などと想像することと思います。
そうなると、軽はずみな発言もできず、「今日天気がよかったからお城散歩してるんだけど、紅葉がきれいなのー、誰かに言いたくて連絡しちゃった。最近○○は仕事どう?」くらいの分厚さの説明が必要となります。
共感できないようなことを聞いた時には、一生懸命理解しようと努力すると思います。その努力しようという過程にまず負担をかけるし、努力の先に待っているのが、私の答えの出ないような心の闇だったら、彼女らの心を傷つけてしまいます。
意味のないことや、わかってもらえなそうなことだからこそ、むやみやたらとは口に出せないのです。
逆もまたしかりで、私も女友達の相談に乗るときには、「この子は私に何を求めてこのことを打ち明けてくれたのか」「ただ聞いてほしいだけなのか」「共感してほしいのか」「反対意見を述べても差し支えないのか」「ほめるだけでよいのか」「解決策を提示してよい段階なのか」などなど、たくさんのことを考えます。
かくいう私も女なので、この、共感欲求は強いと思います。
私は時々、女であることに対して、罪の意識や、後ろめたさみたいなものを感じます。
それはこの社会が、男性の感性を前提に作られていて、女性特有の感性は、時として役に立たないもの、いらないもの、やっかいなものであるとされているように感じるからです。
共感欲求に関しても、職場などオフィシャルな場所では邪魔になるように思います。
タスクを純粋に処理するためにはいらないものですし、コミュニケーションをとる必要がある場面においても、共感力は必要とされるとは思いますが、深い共感欲求はうっとしいものになってしまいます。
飲食店で、男性が、隣の席の女性グループの話題を聞いていて、「あの問題は解決するのか?終わりはあるのか?なにがしたくて話してるんだ?」などと冷笑する、みたいな話をよく耳にしますが、今までの話はこの場面に集約されている気がします。
しかし、その女性の共感欲求に、時々とてつもなく救われることがあります。
自分の心の中の、めったに埋まらない、心に痛みを与えているすきまが、私がわかってほしいと思い、友達がわかってあげたいと思う力が合わさって、埋まってしまうことがあるのです。
そういう時はもう、言葉すら発することができずに、ただただ泣くことしかできません。それで、私がこのことにどれだけ救われているかも、十分友達に伝わってしまいます。
こういう風に心を一度開くと、その女友達には、すごく深いところまで心許すことができます。
どちらも、生きていくうえで欠かせない存在だなあ、ありがたいことだ、と思いました。
男女論は難しい。。うまく書けませんでした。
やっぱりただの男好きなのだろうか。
弱っているときに、同性の私ではなく、異性にしか埋められない何かがあるんだろうなーと、女友達の話を聞いて思うことがありますが、それはなんなのか、なぜなのか、また考察しに二の丸に行ってこようと思います。
今日は雨なのでやめておきます。
図書館でちびっこたちに混じってマンガを読んでいたら、外はすっかり暗くなっていました。
クリスマスツリーの上に下弦の月。
私たちは、一年の1/4くらいの日数、キリストさんの誕生日をお祝いしてますよね(笑)